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プロフィール
 
■博物館での主な仕事(どんなことをやってるの)

・博物館にいるときは、パソコンに向かって事務的な仕事をしているか、資料の登録作業などをしていることが多い
・企画展示をかかえていると、資料収集・調査・展示プラン・予算要求・パネルづくり・印刷物づくり・展示づくり・・・・など、結構忙しい
・伊那谷自然友の会の事務局としての仕事、会報の編集、行事のお手伝いなども結構多い
・自然関係の講座・講演会などの普及行事、毎週日曜日の電子顕微鏡の公開(自然学芸員持ち回り)など
・見学会の他に、企画展や個人研究のために野外に出ることも多い

■専門(とくいな分野と担当している分野)

・地質担当、とくに伊那谷の基盤をなしている古い堆積岩や活断層など
・学生の時から南アルプスの形成に関する研究を続けている

■趣味(好きなこと)

・ハンマーとカメラをもっての山歩き、とくに探検要素の濃い山歩き
・歴史の道や役割を終えた産業遺跡を訪ねること
・地域に残る生活文化を訪ねること
・映画は山田洋次作品のファン、テレビドラマは結構よくみる
・乱読、斜め読み気味だが、図書館にはよく通う

■生い立ち記

子どもの頃

・自宅は、国道1号線からそれほど離れていない、区画整理された住宅地にあった。1kmほど離れたところに、荒子観音に併設された荒子保育園があり、幼少の頃はここに毎日歩いて通った。当時の思いではほとんど消え去ってしまったが、門の仁王尊やお寺の暗い雰囲気がたいへん怖ろしかったように思う。荒子観音は、円空仏や前田利家の菩提寺としても有名なところ。

・小学校はさらに遠く、中郷にあった荒子小学校へ通う。低学年の頃は、田や畑の間をうねうねと続く、狭い歩道のような小径を歩いた。途中のお宮は、休憩場所だったり道草する場所だった。高学年になると、自宅と学校の両方からしだいに道路が整備されはじめたが、通学路の半分ほどがまだ小径だった。行きは地区の全員が行列する集団登校で、帰りは同じ方向へ帰るクラスごとのまとまりだった。帰りは、開放感いっぱいで、いつも楽しかった。
 門の前には文房具店とお好み焼き屋があったように思う。すぐに市電の乗り場があり、チンチン電車が目の前を通り過ぎた。村の端にはお宮があり、ここからは広々とした田園の中の小径となった。途中で、ヘビやイタチを見ることもあった。荒子川沿いにはヨシが茂っていて、小さな川が合流するところに干潟のような州ができていた。ここには、カメがよく甲羅干しをしていた。二ツ橋で荒子川をわたってしばらく小径を歩くと、中島の入口にあるお宮がでてきた。
 小学校を卒業する頃には、中島は農家と新しい住宅地が立ち並ぶ不思議な集落となっていた。私の自宅は、その中でも戦後の早い時期に区画整理されてできた東中島にあった。まわりは、ほとんどが新しく越してきた人たちで、町内会や子ども会などをつくって盆踊りや子ども獅子舞を主体にしたお祭りなどをしていた。お祭りや盆踊りの時など夜遅くまで遊べるときは、通学路にある二ツ橋まで肝試しをしたりした。当時の遊びとして印象に残っているのは、廃材置き場での基地遊びや、池のような休耕田?での水上スキー遊びなどだ。冬には刈りあがった田に入って、凧揚げや弓矢遊びなどもした。
 荒子川はときどき氾濫して、自宅の床下まで水が来ることもあった。こんなときに荒子川を見に行くと、橋と小径だけがわずかに水面から出ていて、海のようになっていた。水が引きはじめると、よく魚取りに行った。水田の排水口は穴場で、ライギョや大きなフナがいっぱいいた。一度、庄内川まで遠出をして、堤防を越えて州の中の池で釣りをしたときに、怖ろしい体験をしたことがある。この池は、フナやコイの他にボラやハゼなどの海の魚も釣れる不思議な池だった。その時はたぶん大潮だったのだろうと思う。水が増え始めことに気がつくのが遅れ、堤防までの踏み跡があっという間に川になってしまっていた。水は上流にむかって勢いよく流れている。友達とおそるおそる腰まで水に浸かって必死のおもいでもどることができた。

中学時代

・中学になると、開発の波は一気に押し寄せ、懐かしい風景はすべてなくなってしまった。通学路の一本の小径や荒子川の流れ、荒子川にそそぐ小さな川がすべて直線になってしまった。水田は区画整理されて、大きなアパートやスーパーマーケットとなった。開発されずに残ったところは、ヨシやセイタカアワダチソウのジャングルのようになっていた。お宮は立て替えられて、モルタルづくりのりっぱな神社となったが、神々しい雰囲気は消え去ってしまった。そのころから、私の自然志向がはじまったように思う。休日には、郊外の水郷地帯へへらぶな釣りに行くことが習慣となった。自転車で行くこともあったが、行きは始発の電車に乗り、帰りは何時間もかけて歩くことが多くなった。釣り自体も楽しかったが、それ以上に自然の中で景色をながめたり、自然と一体化することがなによりも楽しみだった。冬になると、養老山地の向こうに、凹凸の激しい鈴鹿の山が白い屏風のように見えた。遠くには特徴的な形をした恵那山や御嶽山も見ることができた。中学の終わり頃から、山に憧れるようになった。

高校時代

・熱田高校は戦後に創設された歴史の浅い高校であったが、自由な雰囲気で楽しい学生生活をおくることができた。剣道部で体を動かす一方、地球科学同好会に入って、休みには野山に遊びにいった。国土地理院の地図を買い求め、歩いた道に赤線をぬっていくことが楽しみだった。このころから山岳小説を読みふけるようになり、中でも新田次郎の「孤高の人」や「芙蓉の人」には影響を受けたと思う。一人で、鈴鹿を中心にした日帰り山行を行うようになり、地味で道が整備されていない奥美濃の山々に憧れるようになった。両親をなんとか説得して、一人で重いテントを担ぎ、岐阜から福井へ抜ける奥美濃横断山行を決行したこともある。コースは、揖斐川上流の坂内川沿いの道を歩いて、稜線上にある夜叉ヶ池を越え、今庄まで歩くというもので、途中で蕎麦粒山と三周ヶ岳に登る計画だったように思う。結局、蕎麦粒山は藪に阻まれて登れなかったし、重いキスリングを担いで稜線まで登る体力がなく、途中で荷を降ろしてしまい、三国岳経由で夜叉ヶ池までのピストンに終わってしまった。それでも、野宿をしながらのはじめての山行は、自分を知るよい経験となり、自信にもつながったように思う。
 また、高校時代は社会問題に眼をむけはじめた時期でもあった。藤村の「破壊」や住井すえの「橋のない川」を読んだり、同世代の高校生が八鹿高校事件で暴力に立ち向かったことを学校の先生から聞かされ、差別や社会の不正などについて友達と帰り道などでよく議論した。後に、八鹿高校事件の時、生徒会長だった人と大学の学生運動の中で知り合った。

大学時代

・当時はまだセンター試験のような統一試験がなく、国立志望なら一期校と二期校の二つの試験を受けることができた。その一つの静岡大学理学部地球科学科に幸運にも入学することができた。地球科学科を選んだのは、フィールドに入って山のなりたちを解きほぐす地質学の手法に一番魅力を感じたからだ。

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