■金山
早川町には金山跡がたくさんあり、雨畑や保には特に多い。保には大金山という山名さえある。これらの金は瀬戸川層群のスレート(粘板岩)の中の石英脈から取り出した山金で、戦国時代から昭和まで採掘されていた。とくに江戸時代に産出量が多かった。また砂金採取も盛んだった。
数多くの金山の中で、産出量の多かった遠沢金山では、1676年から10年ほどにわたって雨畑村で採掘を請け負っていた時代があった。月に小判五両二分の運上だったが、これ以外の多くの採掘分は公納分と村分に分けていた。その後、専門の山師(鉱山経営者)の手に移り、江戸時代中頃には閉山した。他の金山では山師が請け負っていたところが多く、全国から金をもとめて集まったという(早川町誌から)。
奥沢谷の老平でも奥沢金山(老平金山)、吉水金山などがあった。奥沢金山は明治から大正にかけても採掘された。かつて多くの人が金脈を探していたことを想像しながら、道路沿いの崖や沢沿いの露頭を観察するのも楽しいだろう。
金ではなく金色に輝く黄鉄鉱ならば、広河原へ行く林道沿いの露頭で観察できる。林道沿いの崖は、ほとんどスレート(粘板岩)でできているが、石英閃緑岩(雨畑花崗岩)が分布している場所がある。この周囲の岩石には、金色の黄鉄鉱が含まれている。
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▲笊ヶ岳登山口の雨畑ダム湖 |
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■雨畑硯
雨畑硯は、原石が雨畑川で採掘され、雨畑や鰍沢で加工されている硯である。硯としての歴史は古く早川川原の転石で1690年につくられたのが最初だとされている。
瀬戸川層群の黒いスレートが硯の原石として適していたため、雨畑ではかつては数軒の硯製造業者があったが、現在では硯匠庵が1軒だけ残っている。ここでは製造過程を見学することができる。
瀬戸川層群のスレートは二軒の廃屋のある地点まで分布し、それから西側には犬居層群の砂岩レンズを含んだメランジュ(混在岩)となる。
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▲キンクバンドをもつスレート |
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■布引山から笊ヶ岳
広河原の河床の転石をみると、緑色岩が意外に多く、上流に緑色岩が分布していることが分かる。ところが尾根道沿いでは、砂岩レンズを含んだ泥質岩ばかりで、まれに緑色のハイアロクラスタイト(水冷自破砕岩)が転石でみられるだけだ。
桧横手山をすぎてしばらく行くと、水場の標識がある。この付近から上流側には砂岩が分布するようになる。砂岩がごろごろしている斜面を登っていくと、布引山南面の崩壊地にでる。ここには砂岩泥岩互層が分布していて、崩壊は広がっているようだ。このガレの頭からは、南アルプス主稜線南部の展望が得られる。
布引山をすぎ亜高山植生の樹林帯をしばらく歩くと、二等三角点のある笊ヶ岳(2629m)に到着する。東には樹林に覆われた小笊とその先に富士山、西には大井川東俣を隔てて赤石岳や荒川岳がみごとだ。この山頂付近にわずかにハイマツ群落がみられる。
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▲砂岩泥岩が崩れた布引崩 |
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■笊ヶ岳から椹島まで
北へ稜線を降りていくと鞍部にでる。ここから西へ斜面を降りていく。ほどなく開いた谷へでるが、そのまま川原を下っていくと、樹林に覆われた平坦地にでる。この平坦地は正面にみえる倉沢源流の段丘地形だ。
倉沢源流地帯は水が伏流していて、礫が累々と堆積した礫砂漠となっている。源頭には稜線をえぐるような大きな崩壊地がある。河床の礫や段丘をつくる礫層は、そこからもたらされたものだ。
ここでは、先駆植物であるカラマツが礫を覆っていき、トウヒ属へ遷移していく様子が観察できる。少し下流へ下ると、突然勢い良く伏流水が流れ出て滝をつくっている。ここは堆積した砂礫を下方へ流す侵食最前線である。
対岸のアザミとトリカブトのやぶをこぎ、小さな尾根を越えると斜面をトラバースする道となる。ほとんどスレートからなる暗い道である。大きな尾根にでて、砂岩の急斜面を降りていき、チャートがでてくるとまもなく東俣林道にでる。
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▲山頂から悪沢岳と上倉沢崩壊地 |
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▲上倉沢崩壊地から押し出した土砂 |
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