■日影金山と新田
安倍川上流域は、早川沿いと同じように金脈が多い。とくに梅ヶ島では享禄年間(1528〜1532)に活発に金を採掘し、その後も武田氏、徳川氏と採掘が続けられた。なかでも日影沢金山では、慶長年間に多くの金を産出し、この金は名高い慶長駿河墨書小判となった。日影沢金山周辺は、遊歩道が整備されて、坑口や金堀衆のお墓などを見学することができる。
日影沢金山の手前に、新田の集落がある。この集落は、安倍川本川の三河内川と大谷川との合流点にできた段丘の上にある。段丘はさらに下流の孫佐島付近まで点々と分布している。これらの段丘には膨大な量の巨礫が堆積している。この堆積物は、宝永4年(1707)の東海地震で大谷嶺の南斜面が大崩壊し、その土砂が土石流によって安倍川本流へ押し出したためにできたとされている。
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▲赤水滝付近の段丘をつくる巨礫 |
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■大谷崩れと砂防工事
西日影沢の谷と分かれて北へ向かうと、正面に荒々しい崩壊地がみえてくる。これが大谷崩れだ。崩壊地入口にある扇ノ要の手前までは、堆積土砂の上に開かれた林道を歩き、ここから崩壊地を横にみながらザクザクの道を歩く。崩壊地の上から下まで標高差800mもあるので、登り下りともたいへんだ。稜線の新窪乗越にでれば崩壊の大きさがよく分かるだろう。
大谷崩れをはじめとする安倍川の砂防事業はすでに大正5年(1916)にはじまり、昭和12年(1937)に国の直轄工事となった。これらの工事でつくられた砂防ダム群は、大谷崩れをはじめとする安倍川源流域から生産される膨大な土砂の移動をくい止めてきた。しかし、その反動として下流域の河床低下と三保の松原などの海岸侵食を招いており、近年大きな社会問題となっている。
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▲多量の岩屑を押し出す大谷崩 |
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■大谷崩れの頭、大谷嶺
新窪乗越から崖の端に注意しながら東へ向かうと大谷崩れの頭、大谷嶺(行田山)に行くことができる。ここには標高1999.7mの三等三角点が設置されていたが、現在は行方不明となってしまった。この標高は四捨五入すると2000mになることから、ミレニアムの山として話題になった。最近、雨畑側からのルートも整備されたようだ。
山頂からは南側の展望がよく、幾重にも重なる安倍川流域の山々がみえる。南西方向には、山伏の広々とした山体が雄大だ。
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▲後退していく大谷崩ノ頭 |
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■線状凹地と山伏山頂
新窪乗越から2つピークを越えると、平坦地が目の前に広がる。ササと疎林が明るい高原状の景観をつくっている。台地状の鹿の踊場をすぎると、北北東−南南西方向の線状凹地が発達している広い稜線を歩くようになる。線状凹地の方向は、そのまま割れやすいスレート劈開の方向だ。
刈り払われたササと灌木の道を登っていくと、傾斜がゆるくなり二等三角点のある頂上につく。あたりはササ原の中に立ち枯れの巨木が点在していて、北西に南アルプス主稜線の山々、東に十枚山方面の稜線とその上に富士山が美しい姿をみせている。
時間があれば山頂から西へ急斜面を下り、大笹峠付近で地質を観察しよう。ここには井川小河内と雨畑を結ぶ林道ができている。峠から西は泥質岩中に砂岩レンズが含まれていて全体が破砕帯のように変形している。これは四万十帯犬居層群の混在岩だ。峠の東には、緑色岩とペラペラと割れやすいきれいなスレートが分布している。これらは瀬戸川層群のメンバーだ。つまりちょうど峠付近に笹山構造線が走っているわけだ。
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▲山伏山頂からみた大谷嶺 |
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■山伏山頂から蓬峠をへて西日影沢へ
山頂までもどり、西日影沢へ降りるルートをとる。線状凹地を二つほど越えると、尾根は急に下るようになる。400mほど下ると、蓬峠につく。
蓬峠の東斜面にはハンレイ岩が岩塔をつくっている。ハンレイ岩と西側の泥岩との境界は断層となっていて、破砕を受けた緑色岩や蛇紋岩が挟まれている。この断層にそうように道は南西へ下りていく。
西日影沢ぞいに下りはじめると、すぐに大岩がでてくる。この大岩はハンレイ岩や緑色岩・蛇紋岩礫を含む巨大な礫岩の転石だ。とくにハンレイ岩の礫は直径数mもあるような大きなものだ。
美しいワサビ田や清流をみながら下ると、新田へ向かう林道にでる
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▲ハンレイ岩などを含む大岩 |
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